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長篠古戦場


長篠古戦場
住所:愛知県新城市八束穂
TEL:
設楽原歴史資料館 0536-22-0673
長篠城址史跡保存館 0536-32-0162

営業時間:
休日:
駐車場:長篠城跡に数十台可能(無料)
アクセス:
[車]東名高速道路/豊川インターより約19キロ
[電車]JR飯田線三河東郷下車徒歩5分
コメント:
歴史散策コースがあり、説明版によって散策できます。
近くに設楽原(したらがはら)歴史資料館があるので立ち寄ると良いかと思います。

長篠の戦い(長篠設楽原の戦い)は三河に進行する甲斐の武田勝頼(武田信玄の嫡男)と、
防衛する織田信長、徳川家康連合軍の戦い。
1575年7月9日(現在の暦で)、天正3年(1575)5月8日。
勝頼が家康の長篠城を攻めたことから合戦の引き金となる。
武田勝頼の25000人の兵に取り囲まれた長篠城は窮地に立たされました。
城主の奥平貞昌は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を使者として、
信長と家康に援軍要請した。
信長は武田の騎馬対策のために乾堀(かわきぼり)と土塁を築かせ3重の馬防柵を設けました。
3000丁の鉄砲隊を3組に分けて、
1組目が発射したらすぐに交代して、鉄砲の掃除をして火薬を詰めるまでの間に
2組目と3組目が鉄砲を発射する鉄砲の三段撃ちの新戦法で対抗しました。
鉄砲の弾詰めの間に接近されて斬りつけられる弱点をこの先方と馬防柵により克服しました。信長軍30000人と家康軍8000人、対する武田軍は15000人。
絶え間なく発射される鉄砲の前に武田軍は混乱し、
鉄壁の馬防柵によりうまく鉄砲隊までたどり着けなかったとも言われております。
武田軍は山県昌景、高坂昌信、馬場信房(信春)、内藤昌豊等の
信玄の時代からの有能な家臣を多く失い、最強と言われた武田騎馬軍団は壊滅しました。
戦死者は両軍合わせて16000人にも及び、合戦後に地元の村民はこれらに対し、
塚(信玄塚)を造って手厚く葬りました。


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